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簡単すぎる水耕栽培

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いつもパセリはゆっくり生長中

Category: パセリ  



―パセリ栽培はほったらかし―


いつ種を蒔いたのか、忘れてしまいました。ブログを振り返り…9/16だそうです(笑)
(前回のパセリの記事はコチラへ)


20161223パセリ1
(9/16種まき/種まきから99日目)


20161223パセリ2
(9/16種まき/種まきから99日目)


ほったらかしにしていると、いつの間にか、ちょっとだけ生長しています。


今年の夏に収穫して冷凍保存していたバジルとパセリでトマトシチュー。


バジルとパセリのトマトシチュー


生長が遅くても、保存がたくさんあるので困りません^^ 
前回の栽培を参考に、1月中旬頃から収穫を始める予定です。


―その後―


徐々に育ってきたパセリ。


20170102パセリ
(2017/1/2)


おせち料理の飾りから、少しずつ使い始めました。


ミートソースのアクセントにも欠かせません。ソースは豚挽き半量と、えのきを一袋分を刻んで。えのきのおかげで小麦粉無しでもトロみがつき、量も増し、ヘルシーに♪


ミートソース~パセリ~


パセリ栽培の続きはコチラ


―おまけ―

~伊豆下田旅行(後編)~
(前編はコチラ)(中編はコチラへ)


3記事に渡って綴る下田旅行記もこれが最後。


二日目の朝。部屋食という事情と、温泉に行きたい事情と、日の出を見たい事情で5時に起床。


あたふたしていたら、いつの間にか窓の外は…


20161220日の出 部屋
(部屋から見えた朝日)


日の出しちゃってます!!ということで、急いで浜に。


波の音、砂浜と海のひんやり感。昇る朝日と風と匂いと、一度に全部を味わいたくて五感を研ぎ澄ますも、人間は一度にいろんなことができません…。


20161220日の出 入田浜海岸
(入田浜)


あっという間に貴重な時間が過ぎ去ります。


太陽が昇って明るくなると同時に、見えていなかった景色が映りました。海面に毛嵐が出ていました。


20161220日の出 毛嵐


海水よりも空気が冷たいと起こる現象。太陽が出て気温が上ると毛嵐は消えてしまいます。早起きは三文の徳ですね。


日の出時刻は6時47分でした。


朝食もたっぷり。


20161220朝食1


食欲そそる鯵の干物。


20161220朝食2


旅館のそこかしこに、過ごしやすい工夫と心遣いが感じられる、おもてなしが満載の素敵な旅館。浜辺の宿 濤亭(とうてい)。


部屋の花瓶に生けてあったお花は、一夜明け、ほんの少し蕾が膨らんだようでした。


DSC08900.jpg


お世話になった旅館に別れを告げて、道の駅、そしてペリーロードへ。


20161220ペリーロード
(ペリーロード)


1854年3月31日。横浜にて日米和親条約が締結。日本は215年間続いた鎖国をやめ、下田と箱館(函館)の2港を開港することを決めました。


下田は即時開港、箱館は1855年3月の開港とされました。


1854年6月17日。下田港に来航したペリー一行はこの道を通り、日米和親条約の細則を定めた下田条約締結場所となる了仙寺へと向かいました。


20161220了仙寺
(了仙寺)


下田港にはペリー艦隊来航記念碑が立っています。


20161220ペリー艦隊来航記念碑


そのまま下田公園へと続く坂道を昇っていきます。


下田公園の中腹にある、開国記念碑


20161220下田公園 開国記念碑


左はハリス。奥はペリーの肖像。それぞれの言葉も彫られています。


(ペリー)「余は平和の使節として此の地に来れり」
(ハリス)「私の使命はあらゆる点で友好的なものであった」


ペリーの言葉はマッカーサー元帥が、ハリスの言葉はシーボルトが選び、1954年に開港100年を記念して開国記念碑が建てられました。

そして中央の「開国記念碑」の文字は、吉田茂によるもの。


日米の平和の礎がここにあります。


下田公園の馬場ヶ崎展望台からの景色。手前には下田海上保安部の巡視船。


20161220下田公園 馬場ヶ崎展望台


下田公園を下りて、ベイサイドプロムナードをお散歩。ペリー艦隊来航記念碑から下田海中水族館まで続く、舗装された海沿いの遊歩道です。


20161220ベイサイドプロムナード1
(ベイサイドプロムナード)


遊覧船の黒船サスケハナが見えます。


20161220ベイサイドプロムナード2
(ベイサイドプロムナード)


終点の下田海中水族館で少し休憩。海中水族館を通り抜けると、和歌の浦遊歩道に続きます。


20161220和歌の浦遊歩道3
(和歌の浦遊歩道)


和歌の浦遊歩道は、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン(ミシュランガイド日本版)で星2つを獲得した観光スポット。


寄り道する価値あり!と評価された遊歩道になっています。ここは大浦海岸


ベイサイドプロムナードにはあった柵は、この遊歩道にはありません。入江なので波がほとんどなく、とても穏やかな場所でした。


20161220和歌の浦遊歩道1
(和歌の浦遊歩道)


了仙寺で下田条約を締結(1854年6月17日)したペリーは、ほどなくして日本を去ります。


そのおよそ半年後の1854年12月3日。今度は日露和親条約締結の為、ロシアのプチャーチンディアナ号に乗って下田港にやってきました。


―災難続きのプチャーチン―


滞在中の12/23。南海トラフ巨大地震である最初の安政東海地震が起こります。


マグニチュードは8.4。波の高さは「ハリス日本滞在記」によると「30フィートあった」とされ、9メートルにも及びます。


下田の家々は875軒のうち841軒が海に流され、下田は壊滅しました。


翌日12/24。南海地震が起こり、伊豆半島沿岸は潮が引くことなく、何十回と大津波に襲われます。


今からちょうど162年前。この地は大天災の真っ只中にありました。


和歌の浦遊歩道の脇にゴロゴロとある大きな岩。山からの落石のようで、「落石注意」の看板が見えました。


海岸にあるこの大きな岩の中に、当時の巨大地震で落ちてきた岩があるのかも知れません。


この時、下田港に停泊中だったプチャーチンのディアナ号は、大津波で42回転したとか。


―伊豆は近代造船の礎の地―


ディアナ号は修繕の為、下田から伊豆半島沿岸を南下し、くるっと西へ上がった戸田(へだ)へ向けて航行中に沈没。乗組員500人は全員救助され、無事に戸田に到着。


帰国の為にプチャーチンは幕府に船の建造を願い出、幕府はこれを許可。戸田で船大工を集めました。


天城山の木材を使用し、日露共同で日本最初の洋式造船が造られました。建造された船の名は、戸田の地をとり、プチャーチンが「ヘダ号」と名付けました。


この造船に関わった船大工たちが、後に日本全国各地で造船技術の普及と指導に当たり、日本近代造船の礎を築くことになります。

その後、1855年2月。大震災を乗り越えて、日露和親条約を締結するに至りました。


―下田旅行を振り返り―


何気なく、海を見ながらゆっくり寛ぎたいと訪れた伊豆下田。


街の人々は観光業に慣れた、自然なおもてなしと気遣いを持たれる気さくで穏やかな方ばかりでした。


鎖国をやめ、外国人と交流する決意をもって締結された日米和親条約。


日本で最初の開港の場となったのが、この下田港でした。開港直後、ペリー率いる軍艦7隻がこの港に押し寄せています。


20161219寝姿山から下田港
(下田港)


時代の変化に最も早く直面し、目まぐるしく幕末を生きた下田の方々の、大勢の息遣いが聞こえてきそうです。異人を受け入れ、大震災を乗り越え復興し、自然を受け入れ、今は観光客を受け入れて、温かくもてなしてくれます。


強い街だなと感じました。


―帰宅の途へ―


よく歩いたのでお腹が空き、最後に金目鯛の海鮮丼。


20161220金目鯛丼


下田駅前の時計台を見上げると、もうこんな時間。スーパービュー踊子号がホームで待っています。


20161220時計台


たくさんのお土産を持って、下田に別れを告げました。


20161220伊豆急下田駅


下田の歴史と人々に心からの感謝。とても良い時間を過ごすことができました。


今回のおまけ旅行記。ひたすら長い記事になりました。お疲れ様でした!

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